創作する人のための文章学校-クラス専用掲示板

こちらは、創作する人のための文章学校の、文章創作クラス、創作遠隔クラス、それぞれの専用掲示板です。

ログインしていません。

アナウンス

※現在、新規登録を制限しています。登録をご希望の参加者様は、文章学校までお問い合わせください。

#1 2019-09-26 21:10:46

show3418
メンバー
登録日: 2018-02-09
投稿: 301

導誉

応安六年(一三七三年)。鬼丸が観世座に来て五年が経った。
  清次(せいじ)は観阿弥清次(きよつぐ)と名乗って押しも押されもせぬ人気猿楽となっている。それには乙鶴の力が大きい。鬼丸に続いてひと月ほど後、乙鶴はひょっこり観世座に現れ、それ以来結崎に住んで一座の者たちに曲舞の舞と音曲を教えている。清次が乙鶴に請うて作った「白鬚の曲舞」が爆発的な人気となり、その後も色々な曲舞が評判を取った。
  鬼丸は観世座に来てまもなく、東大寺尊勝院の稚児となって鬼夜叉とよばれている。寺の稚児というのは、寺に住み込んで僧侶の世話をしたり、寺の雑用をする少年だが、僧侶になるための経典読誦の習得に限らず、読み書き算盤、琴棋書画から蹴鞠和歌連歌に至るまでのあらゆる教養文化を仕込まれる。鬼夜叉は春日大社より特別の紹介を得て、稚児修行をしており、観世座の稽古のかたわら、結崎から奈良までの道のりを通っていた。そして、芸にも勉学にも抜群の俊秀ぶりを発揮していた。この年数えで十歳の世阿弥である。
  観阿弥は鬼夜叉の熱心な尊勝院通いが心配でならない。
「ここで猿楽さえしていれば良いものを。住職の経弁さまが奴を気に入っているのは良いが、そのうち坊主になるなどと言い出すのではなかろうな。」
「ご心配には及びませぬ。あの子は舞と謡が大好きでございます。」
乙鶴もそう答えはするが、どこか心にかかることがあるようだ。

  その年の八月十五日のことである。乙鶴は鬼夜叉を連れて近江国甲良荘の勝楽寺に佐々木導誉入道を訪ねた。出てきた京極佐々木家の家臣は、幸い乙鶴には旧知の古参の臣で、顔を見るなり何も言わずに二人を奥へ導いた。かつてこの家の跡取りであった嫡男秀家に見染められ、一度は曲舞の一座を離れて室に入った乙鶴であったが、秀家が宇治橋の合戦で亡くなった後は、また曲舞舞となった。舅の導誉は乙鶴を芸能者として高く評価し支援を続けていた。
  導誉は床を上げて、畳を入れた居室に端座していた。鎌倉幕府最後の執権北条高時に仕えながら、足利尊氏に与力して新しい幕府の成立に深く関与し、その後も永きに亘って辣腕を振るってきた入道も、七十八歳となり衰えが著しい。
「乙鶴か。今日は誰やら訪ねて来るような気がしておったがな。相変わらず美しいのお。最後にこの真桑瓜を拝みに参られたか。」
  少し凹凸のある方を頭頂部にすれば導誉の頭部はずっしりと大振りな真桑瓜を思わせる。三十歳で鎌倉執権北条高時と共に出家して以来、導誉は自分のことを時におどけて真桑瓜と呼んだ。その真桑瓜も今は張りを失い萎びている。
「最後などと、婆娑羅の名が泣きまする。今宵は秋の明月のために、我が子鬼夜叉を御目に入れがてら参りましてござります。」
  その時母の背後に隠れていた鬼夜が、すっと母の横にいざり出て頭を下げた。その自然な流れ、身のこなしが導誉の目に止まらぬはずはない。
「これはまたなんという美童よ。さすが乙鶴の子よ。鬼夜叉と申すか。歳はいくつじゃな。」
「十歳になりまする。」
「十歳か、ふむう。」
導誉の乙鶴を見る目に妖しげな色が交じる。
「さてのお。最後の契りはその頃であったかのお。」
「子供の前で、お控えくださいませ。」
「いずれ芸能者として生きるのであろう。ましてやこの風体は生来の色事師よ。稚児として寺にあるならなおのこと心得ておかねばなるまいよ。」
「いずれにしましても今はお控えくださいませ。御方様をお訪ねすると申しますれば、どうしても聞きたいことがあると言うので連れて参りました。」
「ほう。」と導誉が顔を向けると、鬼夜叉は臆することなく顔を真っ直ぐ上げて言葉を発した。張りのあるはっきりした声が導誉を打った。
「田楽の一忠(いっちゅう)についてお聞かせ願いとう存じます。父観阿弥は一忠を風体の師と申しておりまするが、そればかりでよくわかりませぬ。海老名の南阿弥に聞きましても、良かった、とばかりで要領を得ませぬ。何がどのように良いのか、是非ともお聞かせくださいませ。」
  稚児姿の十歳の童子から、思いもかけぬ気が通ってくる。導誉は思わず居住まいを正した。
「一忠のことは若い頃から知っておる。こと芸事については、儂は一忠とともに生きてきた。その一部始終を語る力は、残念ながらもう儂には残っておらぬ。しかし観阿が一忠を師と仰ぐ仔細ならば多少のことは話せるかもしれぬ。
  この湖北、賤が岳の麓に伊賀具という里があっての。湖の入江の小さな社に天女が羽衣を取られる話が伝えられておる。他所とは違い、ここの天女は羽衣を返される。あれはいつ頃だったか、一忠も四十半ばであったかの。天女が羽衣を返されて舞を舞うのじゃが、一忠めは観阿をひと回り太くしたような身体のくせにな、百済観音のように見えるのよ。湖を背景に舞台を設えて、出入りの幕を正面奥の水際に作って、笛が天女を送り込むのじゃが、水に沈むようで、それがまた天に上がるようにも見えた。武骨な男の身体のまま天女のように見える、それが一忠の物真似であり観阿の言う風体よ。
  若い頃の一忠は物真似が上手くて、女ならば女、武者ならば武者、本物そっくりになって舞台に立っておった。しかしな、その頃からあ奴め太り始めおって、どう作っても女には見えぬ、じゃがそれが舞台に上がると女に見える。何をしているのか尋ねたわい。奴は、心を女にして、あとは無になると言いおった。心とは何ぞと問えば、仏なりと答えてな。この儂に仏を説きおったわ。」
  そこまで話して導誉は苦しそうに息をついた。乙鶴がにじり寄って添えた介抱の手に身体を預けて、弱々しいながらはっきりと言葉を継いだ。
「真似ようとする役の仏性をとらえよ。役者はその仏性を自らの中に探ぐるのじゃ。その仏性と己とを一つにする。全てのものは一つにして、二つはない。これを不二という。禅の奥義よ。」
  導誉は乙鶴を促して床に伏した。
  三日後の八月十八日、婆娑羅の名を馳せた稀代の傑物、佐々木導誉は息を引き取った。乙鶴とともに見送った鬼夜叉は、導誉の言葉を深く刻んだ。

オフライン

Board footer