創作する人のための文章学校-クラス専用掲示板

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#1 2019-10-26 00:44:25

show3418
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登録日: 2018-02-09
投稿: 301

草鞋の兄サ

奈良の都を北から西へ、そして南へと二辺を舐めるように流れる佐保川が、さらに南流して北から大和川に合流するわずか下流に、南から流れ込む小さな支流がある。その支流と大和川とに挟まれた比較的水捌けの良い地に、十戸から三十戸の小さな集落が点在しているのが、観世座の母体となる結崎の里である。集落ごとに氾濫に備えて石組みを囲み、漆の里、養蚕の里、綾織の里などそれぞれに職掌を伝えている。そしてそれらの人々が翁舞を伝承し、春日大社や興福寺の行事の際には当番の者たちが一座を組んで儀式に出勤していた。
  結崎座にやってきた鬼丸は、すぐ里の者たちに認められて、日々の暮しの中に溶け込んでいった。特定の職掌を持つ里は、古くからこの地に暮して生計を立てて来た人々だが、観世座はこの十年ほどの間に新しくこの里に来た者を、清次が束ねて猿楽の一座を組んでいる。三十人ほどいる大人の男たちは、興行となると半分ほどが旅に出る。留守を預かる半分の男と女たちは、近隣の里に手伝いに出かけるかたわら、自分たちの芸の鍛錬や子供たちへの芸の仕込みに時間を費す。鬼丸は嬰児の時を里の芸から離れて育った。その間、曲舞舞の母親に連れられて旅をして様々の舞や謡を見聞きしている。里の芸しか知らない他の子供たちよりも、かえってのみこみが早く、舞も謡もまたたく間に身につけていった。
  ある秋の日のこと、鬼丸は十歳になる兄サに呼ばれて、集落の中に一つある高床の倉庫に連れて行かれた。そこには藁束が壁いっぱいに積み上げられていた。兄サはその一束を下して鬼丸に草鞋の編み方を教えた。普段は裸足で駆け回っている子供たちだが、旅に出る時は草鞋を履いた。
「この秋の旅には鬼丸も一緒だ。自分の草鞋を作るんだ。」
  藁の端を両足の親指に挟みながら鬼丸は母を思い出していた。曲舞の一座と旅をしていた時には、母親の乙鶴が膝の上に鬼丸を座らせて、足に合わせて草鞋を編んだ。わずか半年前のことであるのに、鬼丸には随分昔の出来事のように思われた。
ーーー
  多武峰妙楽寺(とうのみねみょうらくじ)は明日香の奥の山の中腹にあって、氏祖鎌足を祀る藤原氏縁の寺で、天台教学の本拠地として栄えている。宗派を違えて、興福寺とはしばしば争いごとを起していたが、秋の祭礼には庇護されている寺社の如何にかかわらず、大和、丹波、近江などの各地から猿楽の一座が集まって芸を競う。清次はここ数年この祭礼で見所(けんしょ)の耳目をさらい名前を上げていた。
  この時も春に評判を取った「叡尊上人西大寺の鬼を鎮める」演目を用意し、さらに、親を鬼に取られた兄妹を登場させて聴衆の涙を誘った。中でもその妹役を演じた鬼丸の可憐な美しさは際立ち、諸々の座から抜きん出た評価を得ることとなった。
  鬼丸に草鞋の編み方を教えた兄サは、その妹を守る兄の役で、凛々しい少年の風情を見事に演じた。本番前、貴族の女の子(めのこ)に扮した鬼丸を見て、兄サは顔を赤らめ、振舞いはかえってそっけなかった。兄サが初めての大舞台に緊張しているのではないかと、年下の鬼丸が心配したりもしたが、舞台が始まれば、例えば迫って来る鬼に妹を庇って立ち塞がる場面など、その頼もしさに本気で腕に縋りもした。
  その夜のこと。大人たちは舞台を終えて振舞い酒に賑やかな時を過している。草鞋の兄サは鬼丸の手を引いてその場を抜け出した。月の美しい夜だった。虫の声も盛んだ。猿楽の者たちに当てがわれた小屋の裏山へ登り、ちょうどその屋根を足元に見下ろす平場に、腰を下すのに良い岩が並んでいる。兄サは何も言わない。鬼丸も黙ってついて来た。下からは大人たちの上機嫌な声が聞こえる。二人は並んで月を見上げた。兄サは鬼丸の手を握る。少し震えるような掠れた声で尋ねる。
「鬼丸はかわいいねぇ。私のことは好きかい。」
「はい。草鞋の兄サは鬼から私を守って下さいました。」
  草鞋の兄サは自分のことをそう呼ばれてポカンとしたが、気がついて声を出して小さく笑った。ふっきれたように鬼丸を引き寄せて口を吸った。鬼丸は少し驚いたがそのまま身をまかせていた。兄サの抱き締める力がだんだん強くなって、少し息苦しくも感じたけれど、どこかに心地良さもあり、フワッと身体が浮き上がるようだ。
  その時、近くの草叢に物音がして、振り向くと大人の女人が立っていた。草鞋の兄サは驚いて鬼丸を抱いていた手を解き、背後に庇うようにして立ち上がった。月明かりに照らされた女人は美しかった。そして何とも言えない表情をしていた。悲しげでもあり、嬉しげでもある。そして涙を流している。
「カカさま」
  鬼丸が小さく叫んで走り寄った。自分の背後から走り出る時の、袖の袂を払う鬼丸の動きを受けながら、兄サは呆然としている。女人は乙鶴だった。走り寄った鬼丸をかかえ上げて胸に抱き締めた。二人を見ながら、兄サは急に恥かしさが湧き上がって来た。乙鶴のことは里の大人たちが話すのを聞いていた。「それではこの人がオシさまの奥さまなのか」と思い、そしてようやく自分の振舞いとその現場を見咎められたことの恐しさが、恥しさの下から心を塗り潰し始めていた。しかし動くことができない。月明りに再会を喜ぶ母子の姿に、不思議な感興がまた心の別の場所で囁いている。何もかもが美しいのだ。
  乙鶴は胸に抱き締めた鬼丸の顔をひとしきり見つめ、地に下してしゃがみ込み、またひとしきりその頭を顔を撫でまわした。そしてこちらを見つめる兄サに気づいて、そちらにも優しく目を向けた。まだ幼気の残る子供である。しかし何とも好もしい印象をこちらに向けている。
「心配しなくても良い。優しい子だね。強い子だよ。これからも鬼丸を守っておくれよ。」そして鬼丸に「清次さんが許してくれれば、これからは結崎に住むつもりです。そうすればお前とずっと一緒だよ。」
  それまで泣かなかった鬼丸が、堰をきったように声を上げて泣きだした。

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