創作する人のための文章学校-クラス専用掲示板

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#1 2020-02-22 22:30:36

show3418
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登録日: 2018-02-09
投稿: 301

「羽衣の家」天女の巻 序の一

東遊びの駿河舞
あづまあそびのするがまい
この時や初めなるらむ

観世三郎(後の世阿弥)が謡い始めると、それまでの座興を楽しもうとするくつろいだ雰囲気が、たちまち厳粛なものに変わり見所の人々は襟を正した。場所は三保の松原近くの御穂神社の客殿、至徳元年(西暦一三八四年)五月十八日夕刻のことである。見所には駿河の守護今川泰範とその祖父で九十歳の五郎入道範国、嫡男範政をはじめとする今川家の人々とその家臣たちおよそ三十人が居並んでいる。

泰範が、三保の松原の情景を曲舞{くせまい}に作れと所望したのに対して、観阿弥が躊躇しているところに、三郎が進みでた。

「私が承りとう存じます。」
少し高めの涼やかな声が観阿弥の背後から起きた。

曲舞はもともと申楽とは別の芸能だったが、観阿弥が取り入れて一世を風靡してからは、このような座敷での所望に答えて曲舞を謡い、それに舞を添えることがしばしばある。その名前に反して曲舞は舞よりも謡{うたい}を聞かせ、その音律を楽しむ芸能である。

聞き慣れた言葉を観阿弥が曲舞で謡うと、そこに情景が立ち上がる。その不思議さに人々は熱狂した。地獄巡りの曲舞では様々な地獄のそれぞれの責めを、次々とたたみかけるように描き、絵巻物の地獄絵図の中に入って巡っているような気にさせたかと思えば、李夫人の曲舞では、中国漢王朝の武帝が亡き李夫人を招魂して恋慕を募らせる哀切を、当の武帝の心そのままに感じさせた。

観阿弥はこの月の始めに静岡浅間神社で法楽能を勤めた。その時の「自然居士{じねんこじ}」の中にも、船の起源を唐土{もろこし}の故事に託した曲舞があり、その時も風に散る柳に糸を引き渡る蜘蛛が乗る有様や、船に乗って大河を渡る伝説の聖王を描き出した。観阿弥の芸を初めて見た今川の武士たちは、「自然居士」の物語の面白さもさることながら、何もない舞台にその情景が見えてくることにひとかたならず驚いた。

しかしそのためには言葉を磨き、適切な節付けを施さねばならない。詞章の意味を活かす音を探し、上の句七音下の句五音を基調として、そこからの破調を計算しながら、最善の音律を求め、さらに全体の流れを整える、そういう作業をしてこそ聞く人に訴える曲舞が作り上げられる。創始者である観阿弥でさえ、一つの作品を仕上げるのには数日にわたる試行錯誤を繰り返した。

この日三保の松原に遊び、波に素足を浸しながら霊峰富士を仰ぎ見た観阿弥の胸には、既に天女の物語が浮かびつつあった。しかし今この座敷でそれを披露することには躊躇いがある。「観阿弥の曲舞」と名を馳せている身として、即興の舞は如何にも心許ない。

その胸の内を知ってか知らずか、三郎はそれをやってのけようという。望んだ今川泰範にすれば、難しいことは百も承知で、即興による破綻を宴席の座興に供するぐらいの思惑だった。

泰範は三郎を見る。もとより観世三郎といえば将軍愛好の稚児として名高かった藤若のこととは百も承知、成人した今もその見目の良さは芸能の一座の中にあっても際立っている。自身長く居士として建長寺にあった泰範である。禅寺の居士は一般寺院の寺稚児、巻き込まれる愛憎劇とていやというほど承知しているが、三郎には泰範が身に積もらせた陰りのようなものは全く見られなかった。

「でしゃばるでない。」と嗜める観阿弥の言葉に被せて、「見せよ。」と泰範の声が響く。

三郎は、弟四郎と二言三言交わして座敷奥の床柱の前に座した。三郎の右わずか後ろに四郎が座すと、共に扇を捌いて前に出す。

扇を膝に取って謡始めた三郎の声は、深い響きと予祝の雰囲気を湛え、座興の場を一気に神聖な気分で満たした。その上、言外に含む意味合いまで、見所に連なる人々の胸にストンと落とし込んでいく。

「大和から当地へお招きいただき有難うございます。しかもこの美しい地にしばし遊ぶ機会まで頂戴致しました。御礼にこの地を讃える曲舞を謡おうと存じます。まさに東遊びの駿河舞でございます。これよりご披露申し上げます。」

あづまあそびのするがまい
このときやはじめなるらん

曲舞は次第{しだい}という一段から始まった。初句を繰り返して二句の謡を謡ったのち、同じ二句を地謡が低い声で繰り返す。これを次第の地取りと言い、後ろに座す四郎が謡った。四郎は、扇で膝を打ちながら大小の鼓の手をアシラヒながら謡った。

三郎の声は客殿の空間に明るく響き、陽の気となって場を浄め、四郎の声は低く地を震わせ、陰の気となって場を鎮める。

一転、四郎が掛け声を高く張って、大小の鼓の手を激しい調子で打ち進め、それを受けて三郎も高く張った声で勢いよく謡始める。この部分をクリと言う。

曲舞は「次第」「一セイ」「クリ」「サシ」「クセ」などの小段で構成されていて、それぞれ特徴的な音律を持っている。逆に言えばその音律に相応しい詞章が要求される。

それ久方の天{アメ}と言ふは
二神出世のいにしえに
十方世界を定めしに
空は限りも無ければとて
久方の空とは名付けたり

次第は見所の人々への挨拶だった。クリは舞台へ主人公を登場させる前の舞台造りとなる。

今、三郎はこの舞台を「二神出世」即ちイザナギ・イザナミの国生みから説き起こした。これはその地を讃える曲舞の常套手段であるから、観阿弥を始め、観世座の誰が作っても同じような形にはなるだろう。

このクリでは鼓の手組みがほぼ決まっている。三郎は始める前に四郎にクリの謡は五句と告げていた。

三郎の強く深く吸う息が、場を現実から切り離し、一気に吐き出す息に詞章の一句を乗せて、そこに天上世界を描き出してゆく。激しい調子の演奏はクリの留で一旦鎮まる。最後の「り」音を長く伸ばして身体から吐き出された息は、その速度を緩めて産み字{うみじ}の「い」音を産み出し、決まりのユリ節を謡って声を切る頃には、囃子も謡も息を静かに収める。

大きく間をとって、息を新たにサシの謡が始まる。サシではいよいよ舞台に主人公が登場する。

三郎はここに昼間聞いた天女の羽衣の話を挿入した。昔この地に、月の都で満ち欠けの巡りを司る白衣の天女の中の一人が、三保の松原の美しさに降臨して舞を舞った話である。

泰範を始めとする見所の面々は、「白衣{びゃくえ}黒衣{こくえ}の天人の数を三五にわかって(白い衣の天人と黒い衣の天人が十五人ずついて)」と、地元で聞き親しんだ伝承の言葉が聞こえて頬を緩めた。緊張感に満ちた厳粛な雰囲気がにわかに和やかなものに変わってゆく。

然るに月宮殿の有様
玉斧{ぎょくふ}の修理{しゅり}永{とこしなえ}にして
白衣黒衣の天人の
数を三五に分かって
一月夜夜{いちげつやや}の天乙女
奉仕{ほうじ}を定め役をなす
ここに数ある天乙女の
月の桂の身を分けて
仮に東の駿河舞
世に伝えたる曲とかや

三郎は、深く吸った息を一定の圧力で送り出しながら、一音一音の運びに流れをつけて言葉を送ってゆく。一句毎に流れは緩から急へ緩から急へと繰り返し、やがてサシ独特の高く張る節を経て、留に至っては低く呂音の声となって、ついに流れは完全に止まる。

ここでも囃子の四郎は高く張る節をとらえて、収めの手組みを打ち進め、三郎の呂声に合わせて、右手の大鼓、左手の小鼓ともに「イヤー△」と頭(かしら)を打つ。この合頭(あいがしら)がサシの留である。ここまでまずまず上々に進んでいる。

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