創作する人のための文章学校-クラス専用掲示板

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#1 2020-02-23 15:53:24

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登録日: 2018-02-09
投稿: 301

「羽衣の家」天女の巻 第一章 観阿弥 一、孺子

応安元年(一三六八年)は室町幕府三代将軍足利義満の時代が始まった年である。
前年十二月に二代将軍義詮が亡くなり、嫡男の義満が後を継いだ。後に南北朝を統一し、今日までつながる和の文化の礎を築いた義満も、この時はまだ年が明けて数えの十一歳になる少年であった。そして義満のもとで能を作り出した世阿弥は、この年ようやく五歳ほどの童子であった。
  三月のことである。ようやく花も綻び始めている。十人ほどであろうか、奈良の都に吉野大峰より下って来た白装束の一団がある。峰入りは盛んだが、吉野からここまでやって来る講中は少なく、不審の目を向ける者も多い。一行は西大寺の境内に入った。貧者病者を救済する寺として知られる御寺だけに、そこには多くの人が集まっている。その一角に荷を下ろすと、白装束の中から一人が出て口上を始めた。
「さてさてこの西大寺、平城京のいにしえには東大寺西大寺とて栄えし御寺なれど、平安京に遷りし後は寂れ果てて野干の栖となり給える。されば今を去る百五十年の昔、興正菩薩叡尊上人出で給い、密律修行の道場を興し給いてより、再び今の盛んとなる。我ら大和結崎より出でたる申楽の観世座は、明日より一七日の勧進を致す。吉野大峰にて結願を済ませ、ただ今当地へ参り申した。見ものは叡尊上人このところに巣食う鬼を鎮められし有様。皆々人々に語らいご参集くだされい。」
  口上を終えるとその背後から七尺ばかりの鬼が現れたかと見るや、山伏姿の叡尊上人が数珠を揉んで鬼を祈り伏せようとしている。笛太鼓の鳴り物が入り、聴衆を釘付けにする。鬼が叡尊を征するかと見えたその時、出し抜けに囃子が終り、再び口上が出て、勧進猿楽への来場を促した。わずかの口上の間に鬼も上人も以前の白装束に戻り、境内から走り去った。
  翌日からの公演は大変な評判をとり、観世座の名前は南都の片隅に知られるようになった。一座の座長清次はこの年三十六歳、数年前に観世座を旗揚げし、ようやく人々に知られるようになってきた。鬼の物真似を得手としていたが、今回は西大寺中興の祖叡尊上人を登場させたことが見る者の共感を呼んだ。清次の創作には、人々の気持ちを捕まえる工夫に溢れており、数年前の旗揚げ以来一座は次第に人に知られるようになったきた。
  仮小屋をたたんでいるところに、四五歳くらいであろうか、見目麗しい童子を一座の長老が連れてきた。前髪を切り揃え、てっぺんで結った髪が噴き上がる水のように開いている。派手ではないが品の良い麻の衣を膝丈で着て、細い組紐で結んでいる。足元はひとかどの旅人のように、紺の足袋に草鞋、そして脚絆を巻き上げて膝下で留めている。
「どうも母御前とはぐれたようです。」
「ほお」と一目見るなり清次はその子の可愛らしさに感じるものがあった。童子には母親とはぐれた頼りなさなど微塵もない。良く動く大きな目が、仮小屋の解体に取り掛かる一座の者たちの動きを興味深そうに追っている。童子の顔に高さを合わせるように腰を屈めて尋ねた。
「孺子殿の名は何と言われる。」
「鬼丸と申します。」はっきりとした声はいかにも利発そうである。
「これは可愛いらしい鬼でござりまするな。カカ様は如何なされました。」
「ナマイダをしております。」
「念仏のお詣りか。何処のお寺か聞いておいでか。」
「わかりませぬ。」
「この辺りの人かな。」
「旅から旅をしておりまする。」
  何やら舞台めいた言い回しで、どうやらどこかの旅芸人の子供ででもあろうと思い定めた。場合によってはこの子を観世座の子として預かることも出来よう。うまく行けばものになりそうである。
旗揚げしてより数年、一座の座員には十人以上の子が生まれたが、無事五歳を迎えた二人と、今年二歳になる者が一人だけ残っている。病気や事故で亡くなる者もあり、神隠しのようにある日突然いなくなってしまった者もある。その中には人商人に拐われた者もいようが、観世座と同様の旅の一座に誘われて連れていかれた者もいよう。幸い三人は元気に育ち、この公演の間も結崎の郷から女たちに連れられてやってきて、楽屋の周りを走り回っていた。
  清次はしばらくその子と話したのち、一座の長老に言った。
「済みませぬがしばらく承りの舞台もないゆえ、都に行こうかと思います。皆を結崎へ戻してくだされ。この子の母は念仏踊りの教場を回っているようなのです。嵯峨野の清凉寺に念仏踊りの人々が集まると聞きました。行けば母御の行方がわかるかもしれませぬ。」
「わざわざそこまでせずとも、一座の子にしてしまえば宜しかろう。」
「そうなのですが、この子の佇まいに何か引っかかるのです。」
  清次はその子と二人都へ向かった。嵯峨野の清凉寺は三国伝来の釈迦如来像で知られていたが、この頃は専修念仏の道場として多くの人を集めている。鬼丸と名乗ったその子は、離れた母を恋うることもなく清次の後を歩いて来る。さすがに少しゆっくりと歩調を緩めてやったが、
「それにしてもこの子のしっかりとしていることよ。ようやく乳離れしたほどであろうに、この落ち着きぶりはどうしたことか。足取りも確かなもの。旅から旅と言っていたが、よほど歩いているものらしい。」
と、感心すること頻りである。
  観世座の者たちは、奈良から都へ行くのに、必ず奈良坂で奈良豆比古神社に立ち寄る。ここは翁舞の古式を伝えている。観世座の母体となっている結崎座は、翁舞を伝承して春日大社の扶持を受けている。社格は比べるべくもないが、古くからの信仰の霊地である奈良豆比古神社と翁舞の伝承の古さを尊んで、急ぐ時でも必ず顔を見せる。
奈良坂の上り口で、さすがにつらそうにする童子を清次は肩車にかつぎ上げた。奈良豆比古神社の鳥居をくぐったところで、顔見知りの社人と鉢合わせたが、その社人が二人を見て驚いて声を上げた。
「お前は鬼丸ではないか。さてはヌシのテテ御は清次殿であったか。」
これには清次が驚いた。
「いやこれは西大寺で拾った子でございます。この子の母親をご存じでいらっしゃいますか。」
「これは曲舞舞(くせまいまい)の乙鶴(おとづる)の子よ。ヌシとは竹馬の仲であろう。子をもうけるほどのことがあったとて、誰も訝るまいよ。」
  乙鶴は曲舞の座長の娘で、清次とは幼い頃からの恋仲であった。
  芸能にも様々ある。翁舞は遥かいにしえの神の儀式を伝える舞で、春日神社の庇護を受ける大和の四座がその伝承の中心となっている。清次たち申楽の観世座の母体となる結崎座の他、円満井{えんまい}座、外山{とび}座、坂戸座がある。この奈良豆比古神社の翁舞は、春日大社の庇護からは外れているが、かえって古式を崩さない形で伝えられているという。
  猿楽は朝廷の正式な舞楽に対する民間の楽を散楽と読んでいたのが、いつしか猿楽と呼ばれるようになった。したがって同じ猿楽の名を冠していても、丹波猿楽と近江猿楽、摂津猿楽など皆異なる形式と内容を備えている。大和申楽が「猿」ではなく「申」の字を用いるのは、翁舞を母体として生まれたため、「神」の字のつくりを当てたのである。
  曲舞は、昔白拍子と呼ばれた舞姫たちの芸能が形を変えて伝えられている。これは女たちによって伝承されてきた芸能で、舞という名に反して音曲に優れた語りと謡の芸である。女たちの中の見目に優れた者に舞を舞わせて庇護者を求めたため、権力者たちの中に取り入って名前を知られる者もしばしば登場した。曲舞の舞姫を曲舞舞あるいは舞舞と呼ぶ。
  曲舞の一座は七、八人の女たちで構成されていて、舞舞を太夫とし、音曲担当の者と見習いの若い者、そして下働きの女{め}の子たちが、各地の寺社を巡っていた。一つ所に、だいたい十日くらい滞在してまた次の地へ移動して行く。
  乙鶴は舞舞の子として生まれた。その一座にとって結崎は特別の場所であるらしく、普通は十日程で移動してしまうところ、結崎にはひと月以上は滞在することが常で、長い時はひと冬を過すこともあった。清次が同じ年のその舞舞の娘と最初に出会ったのは、七歳の春であった。
  二人はそれこそ伊勢物語の中の筒井筒の二人のように井戸の周りを走り回って遊び、やがてその年頃になった時にお互い初めての異性を経験した。しかしそのひと月後に、女は母親から乙鶴の名を引き継いで、曲舞舞の旅芸人となった。十六の歳には近江の京極佐々木家の跡継ぎに見染められて、武家の室に入ったが、わずか三年余り、その佐々木秀綱は南朝勢との争いで命を落とし、その後再び曲舞舞として各所を回っている。舅の導誉入道も随分執心であったと聞いたが、今ではむしろ芸事の応援をしていると聞く。
  確かに五年程前に播磨の国でたまたま行き会い、久しぶりの契りを交わしたが、乙鶴とてすでに三十歳を過ぎており、初めての子をその歳で授かるとは思いもせず、ましてそれ以来お互いにすれ違ったまま何の知らせも受けていない。
「それではこの子は私の子か。」と清次は鬼丸をつくづくと眺めた。そう思って見れば、顔の輪郭や耳の形など自分に似ていなくもない。しかし眉などほけほけと優しい面持ちで、どちらかと言えばいかつい自分とはあまり似ていない。「乙鶴に似たのであろう。これは大変な美童ではないか。姿も良い。仕込めば座の看板になろう。」などと思っていると、社人が与えたでんでん太鼓をタタンタタンと鳴らし始めた。ここへ来るまでも与えられた扇を開け閉めしてひとしきりであったが、すっくと立って左手にでんでん太鼓を高く掲げ、右手の扇は骨の間に指を差し入れてくるくる回しながら、「ナーアムアーアミーイダアーンブー」と謡い始めた様子は、もうそのままで客を呼べそうな風情である。
突然耳に乙鶴の艶めいた声が蘇った。
「清次さまは鬼が得意の鬼丸さまでございますな。」
鬼と呼ばれる閨房の技を駆使して、清次はその夜乙鶴を忘我の境に追い込んだ。余韻覚めやらぬ中、乙鶴が口にしたのは、清次が鬼の舞を得意としているのと重ねた戯言であった。
「乙鶴め。それをそのまま子の名にするとはな。さればこの子を西大寺に捨て置いたは図ってのことよ。このまま清凉寺に行ってもせんないかな。」
二人はその日は奈良豆比古神社に泊り、翌日結崎に引き返した。

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