創作する人のための文章学校-クラス専用掲示板

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#1 2019-09-29 22:32:10

sandal
メンバー
登録日: 2018-04-20
投稿: 47

『冥い海』 (くらい海)

(なにをぐずぐずしとるんじゃい!)
辻は叫びだしたいような怒りにかられていた。
船からおろされた救命ボートの中には十数人の男達がうずくまっている。
だが、沈みゆく船からまだボートに降りてこない者がいる。彼が来るまでは漕ぎ出すことはできない。
乗員全員の命が極度の危険にさらされていた。

この日、明治37年3月27日。
前月日本はロシアに宣戦した。
海軍の当面の目的はロシア極東艦隊の撃滅である。
旅順港を根拠地とするロシア艦隊は日本の聨合艦隊に十分匹敵する勢力がある。しかし港の奥深く収まって戦闘行動に出ない。彼らは欧州から派遣されるバルチック艦隊の到来を待っているのだった。
大国ロシアは極東と欧州本国にそれぞれ艦隊をもっている。この両艦隊が合流すれば日露の戦力は懸絶し、日本海軍の壊滅は避けられない。
港の背後にはロシアの大要塞が控え海上から港内の艦隊への攻撃は不可能である。
大本営は焦燥した。

「出てこないなら、出てこれなくしてしまおう」
奇策というべき案がだされた。
旅順港は入口が狭く浅い。そこに老朽艦数隻で乗り付け爆破自沈させる。
港口は塞がれ露艦隊は出て来れなくなる。旅順港閉塞作戦である。

(お偉方はいい気なもんじゃ…)
兵曹・辻宏は呆れた。
夜陰に紛れて決行するとしても発見されないはずはない。当然要塞から猛烈な砲撃を受ける。艦を自沈させた後はボートで帰還するがその間も徹底的に瞰射される。ほぼ生還を期し難い。作戦家は実施部隊の危険など顧みていないのだろう。
辻の見方は正しかった。事実、東郷司令長官はこの作戦は危険過ぎるとして当初許可しなかった。が、他に手段が無いため命令ではなく志願制で作戦の実行が決まった。
辻は志願した。愛国の情からではない。
広島の貧農に生まれた。尋常小学校では神童といわれたが中学には進めなかった。貧困ゆえだった。
辻は己の境遇を呪った。しかしノン・キャリア組は命を張ってゆくしかない。
直ちに部隊が編制され辻の乗船は福井丸、指揮官は少佐・広瀬武夫と決まった。

辻はエリート士官を憎んだ。彼らは武功をたてればやがて大将元帥も夢ではない。自分とは違う。
特に広瀬は気に入らなかった。彼は海軍の名士である。ロシア留学中現地の巨人を柔道で投げ飛ばしたり、冬季シベリア単独横断を果たしたり。その英雄めいた評判が鼻持ちならない。
(わしが奴の条件で生まれとりゃ、それくらいのことはやってみせるわい)
辻の強烈な自負心と境遇への鬱屈はそのまま広瀬への反感となった。
広瀬自身は無類の好漢である。隊員たちは直ちに彼に魅了されたが、辻は心を閉ざした。

作戦開始は午前2時。予想通りすぐに発見され凄まじい砲火を受けた。
福井丸は被弾して航行の自由を喪い予定地点まで辿り着けなかったが、ともかくも港口近くに乗付け自沈作業を終えた。ボートを下ろし点呼を取ると杉野という兵曹が欠けていた。おそらく作業中に被弾したのだろう。決死の任務である。一人くらいの行方不明はやむを得ない。部隊はこのまま帰還すると誰もが疑わなかった。
が、広瀬は勇敢だった。
「俺は杉野を探してくる。おまえたちはボートで待て」
そう言って船底に駆け下りてしまった。

それからが地獄の時間だった。
百雷が一度に鳴るほどの砲声が間断なく続いている。次の瞬間には自分の五体は四散して肉塊と化しているかもしれない。そんな時間が永遠に続くように思えた。
白兵戦のように無我夢中の戦闘ならば死の恐怖も忘れていられるだろう。が、辻にできるのはただ息を殺して蹲っているだけである。
もとより戦死は覚悟の志願だった。しかし現実の死に瀕する恐怖は想像を絶した。
精神の崩壊をとどめるのが精一杯だった。乗員は皆同様である。

艇内がパニックに陥る寸前、広瀬はボートに戻った。杉野は結局見つからなかった。
周辺の海は着弾で煮え立つようである。やっと漕ぎ出せたが危険は変わりない。
敵弾がオールの一本を砕いた。兵のひとりが胸を撃ちぬかれ即死した。艇内は血の匂いに充ちた。
乗員は発狂一歩手前である。
が、広瀬ひとりは微塵の怖気もみせず部隊を叱咤した。
「皆恐れるな。俺の顔をみて漕げ!」
神の如き剛胆である。常人とは異なる次元での超越的存在と辻には思えた。
広瀬の魁偉な面立ちが敵のサーチライトに照らされ輝いて見えた。
もし自分が杉野のように行方不明になったとしても、広瀬は命がけで探してくれたに違いない。
辻はそれまでの増長を悔いた。耶蘇の懺悔に似ていた。
聖パウロの回心のように、広瀬への反感は突如逆転し、畏敬…というより崇拝に転じた。
無信心の辻はこの時かつてしたことのない精神の操作をした。
広瀬を神として祈った。
(どうか生きて帰らせてつかぁさい…)
この軍神の顕現にすがれば自分は死なずにすむ。
そう信じることで極限の恐怖からわずかに自分を救いだせる気がした。
辻は広瀬に拝跪するようにこうべを垂れた。

その刹那、頭上至近に弾丸の飛翔音が過ぎ辻は顔に得体の知れぬ液体を浴びた。酷寒の海上で生温かい感触が異様だった。左手で頬をぬぐうと掌が赤かった。
何が起こったのか咄嗟に理解できぬまま顔をあげると、眼前に立つ広瀬の頭蓋が三分の一ほど消えている。
辻の頬にかかったのは敵弾の直撃をうけた広瀬の血と脳漿だった。
骸と化した広瀬の体は暗い海に落ちた。

(なぁんじゃい…神でもなんでもなかったわい)
一瞬失望とも幻滅ともいうべき意識がよぎったが、しかしすぐに思い直した。広瀬を勝手に神と崇めたのは自分だった。広瀬は最期まで勇敢に指揮を続けたのみである。辻は己の心の身勝手を愧じた。

敵弾はいよいよ激しさを増している。
しかし辻の恐怖は減じていた。
「生きて還れるかのぅ?」隣の兵が半泣きで言った。
「誰が知るかい!」
辻は怒鳴りつけた。
誰が生きるか死ぬか、どこに弾が当たるか、
どんな境遇に生まれ落ちるか…
この世はどうにもできぬことに満ちみちている。神仏にすがるのも虚しい。
すべてはなるようにしかならない。
そんな虚無の想いで辻はオールを漕ぎ続けた。

結局、閉塞作戦は失敗に終った。
この後やむなく陸軍による要塞攻略が実施され惨憺たる苦闘の末ようやくこれを陥とした。旅順艦隊は陸からの砲撃で全滅した。

辻は生還した。
辻が束の間神と崇めた広瀬は皮肉にも日本初の軍神となった。
彼は広く喧伝され、文部省唱歌に歌われ、尽忠報国の象徴として国家プロパガンダに利用された。
辻は時折、あの日ボートからみた暗い海原を夢に見た。
広瀬は確かに稀代の勇士だった。しかし神とすべきだろうか。
想えば多くの宗教が太古より信仰の対象を設定し、営々と教義体系を築き上げ、人々を操作してきた。
しかしそれは人の心の弱さに根ざす壮大な虚構かもしれない。
答の出ぬままに、辻は神・宗教・信仰の意味を考え続けた。

ボートに立つ広瀬の勇姿は今も靖国神社大燈篭のレリーフに刻まれている。

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