創作する人のための文章学校-クラス専用掲示板

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#1 2019-12-11 11:15:51

でんでら
メンバー
登録日: 2018-01-11
投稿: 334

赤い靴 リライト(感想は感想版のトピックに作ってあります)

『赤いくつ』 リライト

ちょうどあさがおが咲き始めたころだった。
午前三時、私の三つ年下の妹、あっちゃんが殺された。享年四三歳だった。
犯人はあっちゃんの担当職員の男だった。他にも重軽傷者は二〇人いたけれども、死亡したのはあっちゃん一人だけだった。

私が訃報を聞いたのはテレビから流れてくる朝のニュースだった。
何気なくつけたテレビから、私の良く知っている場所――それはあっちゃんのいた重度心身障害者の入所施設だった――が映し出されていた。報道陣たちがせっぱつまった声で、入所者が何人か刺されたらしいと言っていた。
私は一〇分ほどテレビを見ていたと思う。というのは、いま思い返しても、そこから仕事場に着くまでの二時間あまりの記憶がほとんどないのだ。
覚えているのは、いつものように自宅アパートのベランダで育てていたあさがおに水をあげたこと。恋人とは最近別れたばかりだった。
それから、松本に住む母からスマートホンに電話があったこと。
母はずいぶんと動揺していた。
「施設の人に聞いてもわからないと答えるばかりなの。あっちゃんが生きているのか、死んでいるのか、どこの病院へ搬送されたかどうかもわからないの。ちゃこ、早く松本へ帰ってきて」
子どもが嘆願するように、母は電話の向こうで泣き叫んでいた。
「――無理」
私は冷たく言い放った。
「今日は大切な会議があるのよ。はっきりしたことがわかったら連絡をちょうだい」
「ちゃこ!」
母の声が裏返った。
「あっちゃんは無事かもしれないでしょ。もう少し落ち着いたら」
私はそう言ってスマホを切った。
「あ」
私は小さく叫んだ。
スマホに電話してもすぐに折り返し連絡できないかもね、というのを忘れていた。
母にメールを送ろうとすると、LINEの着信音が鳴った。仕事場の同僚からだった。
『司会をかわろうか?』
今日の午後から県内三〇の障害者団体が長野県庁に集まってくる。陳情懇談会は三階の大会議室で行われることになっていた。私はそこで、懇談会の司会進行をすることになっていた。
私は『大丈夫、予定通りやります』と返信を打とうとした。
手がかじかんだように動かなかった。
頭では大丈夫、という文字が浮かんでいるのに何度もタイプミスをした。けっきょく、「だいじょうぶです」と打つのに一〇分くらいかかってしまった。しかもひらがなで。

あっちゃんは重度のダウン症だった。
身辺自立もおろか話すこともできなかった。
立つときは大人が羽交い絞めにして立たせ、歩くときは歩き始めた赤ちゃんを支えるママのように、あっちゃんと向かい合って歩いた。
だから、養護学校を卒業してからは松本市にある牛伏寺山のふもとに建てられた重度心身障害者の施設に入所した。市内に一つしかないその三階建ての施設には、あっちゃんくらいの年の頃の子から、八九歳になるおじいさんまで、百五十人がくらしていた。私の通っていた中学校とは800メートルほど離れた場所にあった。
それなのに、あっちゃんが帰ってくるのはお盆とお正月の三が日くらいだった。
あっちゃんには行動障害があったからだ。
突然激しく自分の頭を手で叩いたり、自分の排泄物を体に塗ったりした。母は厚手の生地でミトンをつくり手に被せ、お風呂場で洗った。
父はそのたび「風呂場が臭い」と怒った。
やがて母も高齢になった。五年前に足を悪くしてそれを理由に盆と正月の一時帰宅をとりやめた。父はあっちゃんが死ぬまで、一切母の手伝いをしなかった。

夕方五時頃、陳情懇談会の後片付けをしていると上司に呼びだされた。
デスクへ戻って松本の実家へ電話かけた。
あっちゃんが死んだ、と電話の向こうで淡々とした口調で父が言った。
私は最終の特急しなのに乗って松本へ帰った。

「――ちゃこちゃん、お願い」
事件から三カ月がたった、日曜の昼下がりのことだった。
母が電話をかけてきた。そのせっぱつまった声は、あっちゃんが事件に巻き込まれたかもしれないと報告してきたときと同じだった。
「――どんなお願いなの」
私はおそるおそる尋ねた。
母は小さい声で、お父さんがね、と言った。
「――あっちゃんの骨を家の墓に入れるなっていうの」
言葉が出てこなかった。
沈黙の中で、壁掛け時計の秒針のリズムと外の雨どいから垂れる水滴のリズムが重なる。二音の正確なピッチが、一人暮らしのワンルームに響き渡る。
「――そう」
私は静かな声で応えた。答えてから、ひどいわね、とひとことつけくわえてもいいかも知れないと思った。でも言うのは嫌だった。
母は私の冷たさを敏感に感じ取ったのか、しばらく黙っていた。
「お葬式も上げてもらえなかったのにね」
私は母のご機嫌を伺うように言った。
「あれは……マスコミの対応で……仕方がなかったのよ。ご近所さんにも迷惑がかかちゃうでしょ」
母は父をかばった。私はこころの中でため息をついた。なーにやってんだか、お母さんは。
父は病院で母と一緒にあっちゃんの遺体を確認すると、すぐに火葬場へ送る手はずを整えてしまった。母がせめて一晩でも家に、と言うと「斧で頭をかち割られた姿を晒しで何が楽しいのか」と怒鳴りつけた。そんなわけで、私は病院の慰霊室であっちゃんと最後のお別れをしたのだった。
火葬場でもひと悶着あった。
遺骨の引き取りをかたくなに拒否した父の姿を見て、火葬場に駆けつけてくれた施設の保護者会長さんが、一時的にあっちゃんの骨を預かってくれていた。
「それでどうするの」
そう言って、私は窓の外に目をやった。
庭に植えてあるフジバカマの枯れた葉っぱが一〇月の冷たい雨に打たれ上下に揺れていた。
「やっぱりちゃこちゃんがひきとってもらえないかしら」
私の頭の中は真っ白になった。
あっちゃんが死んだ、と聞かされたときと同じように。
「ちゃこぉ」
母がすがるような声を出した。
その幼さがまとわりつくような声に私は思わず叫んだ。
「嫌よ!気持ちわるい!」
私は電話を切った。
あっちゃんはずっと母を独り占めしてきた。
私がディズニーランドへ行きたいとせがんでも、あっちゃんがいけないからだめ。
近所のスーパーであっちゃんが大声をあげれば、次の日クラスメイトに真似をされてからかわれた。人形みたいにぼーっとよだれをたらして汚いとか、うんこ臭いとか言われる。
中学生になって悪い点数を取れば、あっちゃんと姉妹だからだと悪口を言われた。母に訴えても泣いて謝るばかりだった。私は、学校へ抗議してほしかった。
それどころか、あっちゃんが一三歳になって寄宿舎へ入所すると、母はすぐにフルタイムで働き始めてしまった。
あっちゃんがいようといまいと、母は私に関心がなかった。
私は冷蔵庫を乱暴に開けた。
二〇〇ミリリットルの日本酒の小瓶をひっつかんだ。
大信州は長野の名酒で私のお気に入りの一つだった。
三分の一をコップに注いだ。
母は、何度もぎっくり腰になった。あっちゃんは一四七センチ、六五キロもあった。
父からは「お前の遺伝子が悪いせいだ」と責められた。
頼れる親族もいず、父の稼ぎもそんなに良くない。
私は地元の国立大学進学と同時に家を出て、安定した公務員の地位を手に入れた。でも母はずっと家とあっちゃんに囚われたままだった。
私は酒を一気に飲み干した。残りをまたコップに注ぐと飲み干した。瓶を壁に思い切りぶつけた。瓶は割れて床に散乱した。私の住んでいるアパートは賃貸だったけれども、どうでもよかった。
私のほうがあっちゃんよりも頭が良かったし、お母さんの気持ちも理解することができる。気持ちもちゃんと伝えられる。あっちゃんを殺した犯人は、あっちゃんとは会話が一切成り立たないから、という理由で殺した。人とつながれないものは人ではない、という理由だった。
寂しい。なんて寂しい理由であっちゃんは殺されたんだろう。
――私もお母さんとつながれなくて寂しい。
私もお母さんを殺したい。


一週間後、母から宅急便が届いた。
開けるとビニールにくるまれた赤いスニーカーと手紙が入っていた。
薄いパープルの便せんにはペン字のお手本のようなきれいな字で「ちゃこへ」と書かれていた。
『ちゃこへ。
先日は変な電話をしてしまってごめんなさいね。おかあさんのせいであなたにはたくさんの迷惑をかけてしまいました。おかあさんの遺伝子がもう少ししっかりしていればよかったのにね。さて、あっちゃんの骨ですが、施設の保護者会長さんに相談しました。会長さんのお知り合いのお坊さんが遺骨を引き取って、永代供養してくれると約束してくれました。だから安心してください。でも一つだけ、最後のお願いをきいてください。今後は一切あなたにお願いはしません。あっちゃんが施設ではいていた靴を預かっておいてください。そして私が死んだら、一緒にお棺に入れてください。お母さんがお父さんよりも先に死んだら、お父さんに見つからないように入れてください。おねがいします。ずっと独り身のちゃこもゆくゆくはうちのお墓にはいるでしょう。そうしたら、天国では三人一緒になれますね』
封筒には便せんの外に新札の三万円が同封されていた。
「ほんと、最後まであっちゃんのことばかり」
私は便せんを小さな二人掛けの食卓の上に放り投げた。
母は本当に何もわかっていないと、思った。
ビニールの中にはニューバランスの赤いスニーカーが入っていた。
「ニューバランスってけっこういいお値段するじゃんね」
私は馬鹿にするようにつぶやいた。
あっちゃんはこの靴を母が買ってくれたとわかっていたのだろうか。
知的最重度の妹、私の名前すらいえなかった妹。
スニーカを手に取って中をのぞくと、靴の底にばんそうこが一つはりついていた。そういえば、職員さんがあっちゃんはよくかかとに靴擦れができると言っていた。私はそこまで歩く訓練をしなくともいいのに、と思っていた。けれども、あっちゃんの担当職員だった犯人も、お母さんも、外をへあっちゃんを連れだしていた。
「移動なんて、車いすでよかったのにね。あっちゃんも毎度合わない靴を履かされて、そのたんび靴擦れつくって大変だったわね」
私はばんそうこうに向かって話かけた。
「ほんと、うちらのお母さんってひとりよがりよね。あれじゃあ、お父さんもいやになるわけよね」
私は食卓の椅子に座って靴を膝にのせると話しかけた。
「でも、お父さんもお父さんだよね」
ねえあっちゃん、と私は靴に呼びかけた。
「大みそかの夜にあたしとお母さんとあっちゃんでオセロやっていた時に、突然お父さんが怒り出した事件あったじゃん、覚えてる?私が小学校六年生で、あっちゃんは中学生だった。お父さんったら、テレビが聞こえないとかなんとかいっちゃって、子どもみたいに怒ってさ……」
私はあっちゃんとオセロをやったことを思いだしていた。
私がゲームに負けると母とペアを組んでいたあっちゃんはいつも手を叩いた。あっちゃんはちゃこが負けるのが面白いみたいね、と母が言って、とても悔しかったことを覚えている。
「あっちゃん、本当はいろんなことがわかっていたんだよね」
私はそう言って立ち上がると、足元に置いた段ボールに靴をしまった。
「でも、お母さんに伝えたくても、うまくつたえられなかったんだよね」
私は食卓につっぷした。
私は、あっちゃんが自分の体を傷つけていた理由がわかる気がした。
いらいらして私がお酒を飲むように、きっとあっちゃんもいらいらしていたんだろう。あっちゃんが望んでいたのは、厚手のミトンでも体を清潔にしてもらうことでもなかった。きっと、どうしてほしいの、という簡単な言葉だったろうと思う。それは、私も母から欲しかった言葉だった。
「何だかんだ言って、わたしたち、似たもの姉妹だね」
私は、ふたたび靴を段ボールから取り出した。
それから、玄関へ行って観音開きの靴だなを開けた。最上段から牛皮の袋を引っぱりだした。中にはプラダのヒールが入っていた。ボーナスで買った靴だった。ヒールを取り出して、棚の別の段にしまうと、空いた袋の中にあっちゃんのスニーカーをしまった。私は静かに扉を閉めた。思わず手を合わせていた。

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