小説の醍醐味

老眼になったのと、通勤に電車に乗る時間がなくなったことで、本を読まなくなった。マンガ雑誌すら読むのが面倒くさい。ぼやっとしている時間も楽しいし、人と話しているのも楽しい。DVDを見たり、ゲームをすることもあり、よほど強力な引力がないと本というのは読みたくない。
そういう僕が今愛読している作家は、五味康祐の時代物短編である。
たとえば、こんな話はどうだろう。
ある農村で、小豆が盗まれた。朝家で赤い飯を食ったという少年がいたので、農民たちは、その家に押しかける。そこには、今は貧農である武士がいて、話を聞いて、息子の喉から腹まで裂いてしまう。そこには一粒の米もなかった。子は飢えながら虚言を吐いたのである。
武士は「これが武士じゃ、わかればよい。行け」と農民たちを去らせ、自らも翌朝、その村を去る…
というのが、短編のあらすじ、かというと、違う。
1ページ弱を使って、一人の武士を紹介したのである。
小説の一つのバーツがこれである。
このような苛烈な生き方をする武士と同格と思われる武芸者が、この短い作品には、あと四人出てくる。
そして、この作品が終わるとき、生きているのは、この五人のうち、一人だけである。
これは贅沢というものである。
陰影豊かにドラマチックに造形された魅力的な登場人物が、武士である、という一事を貫くために、まことにドライに命を散らしていくのである。
虚構であるのだから、いかに贅沢でまた非情、無惨であってもいいのである。
山田風太郎の忍法帳にも、同様のもったいないほどのイメージの蕩尽がある。
こういう作品こそ、老眼を推して読むに足る、まこと、大人の、そして、男の読み物と言えるのである。

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